私がアダムスキーの宇宙哲学に出逢ってから、早いもので、もう30年以上経つ。
今でも全く考えがブレることなく新鮮な学習を続けることができるのは、ひとえに、故・久保田八郎先生がアダムスキーの書籍を日本語へ翻訳して商用出版し「日本GAP」という学び場を主宰していてくれたおかげである。
私は、感謝してもしきれない程に、このノウハウの恩恵を得ているので、一生をかけて恩返ししていきたいと思う気持ちは、絶対に揺らぐことはない。
さて、20世紀の末(1999年12月)に、その「日本GAP」が解散してから、かれこれ四半世紀以上が経過する。
日本では今でも宇宙哲学に出逢えるチャンスは開かれているが、現在でも引き続き、学び続けている人は、どんどん減っていると思う。
亡くなってしまった人や関心を失ってしまった人も数多くいると察する。
でもその一方で、新しく関心を持つ人も現れてきているし、再び思い出して、学び直してみようと思い立つ人もいる。
久保田八郎先生を知らない人たちも増えているし、これからも増えると思う。
私は、久保田八郎先生および日本GAPとは、最期のわずか数年間しか関係していないし、何の貢献もできていない。それだけが唯一の悔みである。
だからせめて、その活動の成果と功績を後世に受け継いでいくことに、尽くしていこうと考えている。
そこで、自分の思い出話を、忘れないうちに記録に残しておこうと思う。
私の個人的な日記やメモをそのまま引用しながら、思い出していけば、何か新鮮な発見があるかもしれない。
久保田八郎先生と日本GAPを知っている人には、少し懐かしい話になるかもしれない。
1992年04月05日
私が初めて日本GAPの東京月例セミナーに参加した時の日記である。
当時、私は社会人1年目。会社に通い始めてから最初の日曜日だった。
会場に入ってすぐに声をかけてきてくれたのが、加藤純一さん(うんこちゃん ではない方の)で、
常人とはちがうオーラを感じたのをよく覚えている。
彼は「この前、大母船を見たんです・・・」と言って、ものすごくリアルな生々しい話を語り続けていたので、すごい人だなと思った。
彼は後に、日本GAPの後継団体「日本UFO調査・普及機構」を立ち上げて、UFO研究家として活躍していたはずだが、今はどうしているのだろう?
1992年05月10日
2回目に参加した時の日記である。
この日は、友達も誘って連れて行き、初めて夕食会にも参加した。
新橋の銀座ナインに入っていた「やぐら茶屋」だった。
この日、初めて久保田八郎先生と少し会話することができた。
光体が写っている写真を一緒に渡したかもしれない。
久保田八郎先生のメモには、次のように記されている。
その後7月に秋山眞人さんに鑑定をしてもらったらしいが、その直後のメモには、こう書かれている。
1992年06月07日
3回目に参加した時の日記である。
この日は、2次会まで参加した。一緒に行ったのは、7人くらいだろうか。
久保田八郎先生と間近でお話することができた。
1992年07月05日
この日の月例セミナーには、故・深野一幸 博士が来ていた。
セミナー開始時刻は13時からだが、30分以上前に来て、私は真ん中の列の前から3番目に座ったが、前の席に深野博士が座っていたのに気づいた。
「すいません、深野一幸 さんですか。いつも本を読ませていただいています。・・・」
等と声を掛けて、ご挨拶することができた。
深野博士はその後、久保田八郎先生が会場に入ってきた時に何か書類のやりとりをした後、セミナー開始の前に退出された。
1992年08月02日
夕食会に参加して、あまり会話しなかったと書いてあるが、同席したのは誰だったのだろう?
日記をテンプレート化して記入してみることを試みた。
1992年08月24日
これは月例会の話ではないが、超能力者として有名な斉藤庄一さんから突然、「ボストンクラブの斉藤です」と電話がかかってきたので驚いた。
ボストンクラブは、超能力者の秋山眞人さんが所属している組織であることは知っていたが、私の方からは何の連絡もしていないのに、どうして私の家の電話番号を知っているのだろう?と疑問に持ったのである。
後になって分かったことだが、私はこの5年くらい前(高校3年の時)に、
「これでダメなら成功も金儲けもあきらめろ」(田中孝顕 著)
という本を読んで感銘し、付属のハガキに感想を書いて返送したことがある。
その宛先が「SSI能力活性研究所」だった。
ボストンクラブは実はこの会社内のプロジェクトで、秋山眞人さんと斉藤庄一さんが当時ここに勤務していた、ということを後になって知って納得した。
ボストンクラブの方は興味がなかったので断ったが、これ以降、以前にSSIの名で50万円くらいのバイオフィードバック装置を買え!買え!と売り込んできたのと同じ営業担当者が今度はボストンクラブの名で電話をかけてきた。
1992年09月06日
月例会も毎月参加しているが、だんだんマンネリ化してきたのかもしれない。
実際のところ、UFO目撃にしか関心がない人が増えてきて、だんだんと感覚がズレてきたのかもしれない。
長沼さんが「GAPは、UFOに関心がある人も、宇宙哲学に関心がある人も、超能力に関心がある人もいる。みんなが集まっているからいいんだ」というようなことを言っていて、なるほどと思った。
いろんな人が集まって建設的な会話を交わすから相乗効果が出るのだ。
1993年07月05日
1年近くブランクがあるが、その間も月例セミナーへの出席を止めていたわけではない。
毎日日記を書くという習慣をやめて、毎日書かなくなっただけのことである。
手書きノートをやめて、パソコンで書くようになったことがきっかけである。
当時使っていたソフトは、「知子の情報」(テグレット技術開発)である。
このソフトを使い始めたことで、アダムスキー全集の全文テキストデータベースを作ろうと思いついた。
1993年08月02日
夕食会での出来事についての記録がある。
日本GAPに参加している人が高貴な人間ばかりとは限らない。でも、
高貴な人間で「あるべきだ」という理想論を持ってしまうと、そこに不調和が生じる。
批判的になると、別の人に対しても批判的な感情が連鎖して出てくるので、要注意である。
1993年10月10日
日本GAP総会へ初参加した時の日記である。
この時の久保田会長の講演「信念と希望と絶対に諦めない力を引き出す方法と成功の秘訣」は、
https://youtu.be/4c4DoiCfCxA
のURLで、いつでも動画で見ることができる。
1993年12月05日
日本GAPの月例セミナーは当時、東京タワー横にある機械振興会館で開催されていた。
開始時間は13時からなので、午前中に秋葉原に寄って買い物をしてくることもあった。
当時私が使っていたPCは、DOS/Vパソコンと呼ばれていて、OSは Windows3.1 だった。
日記代わりに使っていた「知子の情報」というソフトは MS-DOS版だった。
1994年01月09日
日本GAPの月例セミナー会場で「生命の科学」の書籍を購入すると、久保田八郎先生のサイン付のものが割引価格で手に入れることができる。
私は何冊か買って、何人かの人に配ったことがある。
1994年02月06日
私はこの頃、アダムスキー全集の書籍をOCRソフトでテキストファイル化して全文検索を可能にするデータベースを既に作り始めていた。
このことを何人かの人に話したところ、PCを使っていた人はみんな関心を持ってくれたので、欲しい人にフロッピーディスクで手渡ししていた。
この日に渡したのは、川口市の野口さんである。
1994年03月06日
東京月例セミナーではこの頃、ほぼ毎回、スライド上映をやるようになった。
今のように動画を投影するのではなく、写真を1枚ずつ紙芝居のようにめくりながら解説する、というスタイルである。
1994年05月09日
この日の月例セミナーは、私にとってターニングポイントになった重要な日だった。
最初に出てくる林さんは、昭和の有名な歌手と同姓同名だが、別人である。
とても真面目でおとなしそうな子だったが、この子が後に大騒動を起こすことになるとは、この時点では全く予測できなかった。
2番目の、アダムスキーデータベース計画については、徐々に実現していって現在に至っている。まだまだ完成ではなく、これはライフワークになっていくと思う。
最後に出てくる青年は、田中寿三郎さんで、今でも塾の先生をやっている。
https://jusadream.com/elementary/
10年前に、
CC会勉強会 に参加してくれた時に久しぶりに会うことができた。
1994年06月05日
私はこの時すでに、モバイルノートPCを使っていた。
Windows3.1を動かすには非力だったが、MS-DOSで「知子の情報」を動かす程度ならば十分な性能だった。
アダムスキー全集の第9巻迄という制約はあるが、フリーワード検索で「第**巻の**ページ目」という情報を探し出すことができたことは、自分でもすごいと思った。
これが今では、全集がすべて入っていて、スマホからも検索が可能になっている。
https://www.adamski.jp/adamski/adamskisearch.html
1994年09月04日
この頃はまだAmazonが登場していなかったので、本屋さんで売っていない本を入手するのは難しかった。
本屋さんにブラリと立ち寄って、立ち読みして、偶然手に取った本がすばらしい出逢いになる、という経験も多々あった。
電子本でも同じ体験ができないというわけではないが、本を手に取った時の「波動」というか直感で味わう出逢いは、リアル書店でないと精度が落ちる。
1994年11月10日
この頃、日本GAPの東京月例セミナーに行くと、なんだか「混乱の予感」ともいうべき変な雰囲気 or 波動が感じられるようになってきた。
話題がUFO目撃の話ばかりになってきたのに加えて、さらに飛行機を見てあれはUFOだという主張を押し付ける人まで増えてきて、さすがに呆れてきたことは確かである。
私は絶対にUFOのことを話さないようにしよう、と決めたのは、この頃だと思う。
1995年05月26日
日本GAPの「支部大会」なるものに参加したのは、この「第1回高松支部大会」が初めてだった。
これ以降、どこにも参加していないので、この第1回高松支部大会への参加は、最初で最後だった。
でもこの時、突然に思いついて「絶対に参加すべき」という強いフィーリングがあったことは事実だ。
支部代表の関さんについては全く知らなかったが、ものすごく真面目で信頼できる人という強い予感があった。
この時期は、TVではオウム事件ばかり報道しているし、飛行機型UFOの大騒動もあったし、さすがに少々疲れていたことは事実である。
高松支部大会に参加して、期待以上に元気をもらうことができたおかげで、余計な情報に惑わされることが限りなく少なくなった。
1995年06月04日
この日の伊藤さんのお話は、とても感動した。
援助する側、される側の、両方の立場を知ることは有益だと感じた。
1995年08月15日
月例会は欠席したが、井川さんと会うことになった。
町田から玉川学園前くらいまで散歩しながら、たくさん話した。
1995年09月15日
一方的に批判されている側の意見にも耳を傾けないと真実は見えてこないので、小西さんとの面談も断らなかった。
予想に反して、彼は、悪口は一切言わなかったし、彼らのグループに勧誘するような言動も一切なかった。
そもそも私が興味あるのは、UFO目撃でも飛行機目撃でもなく「宇宙哲学の実践ノウハウ」なのだから、話が噛みあうわけがない。
飛行機型UFOの話を拡散していた人たちのグループは、林姉妹が除名された後も、しばらくの間は集まって活動をしていたらしいが、その後、このグループが目立った行動をしていないことからすると、おそらくこの女性教祖さまの関心が低下して自然解散していったのだろうと察する。
1995年09月23日
今回の日本GAP総会で、秋山眞人さんのお姿を初めて、生で拝見した。
翌日の観光にも参加した。帰ってきてからもテンションが高かった。
1995年11月05日
1995年は、起業を思い立った年なので、本もたくさん読んだ。
1996年06月02日
この当時に流行った「CALS(キャルス)」という言葉は、
概念が難しいので、役所や一部の業界以外ではあまり使われず、
一般では、もう知らない人も多い。
「EC(電子商取引)」の言葉の方が普及した。
1996年07月04日
この月の東京月例セミナーのわずか1週間前に突然、篠さんから電話がかかってきて、
「今月の会員講演をお願いしたい。もし受けてもらえるならば、久保田先生へ電話してほしい」と言われた。
私は、絶対に呼ばれることはないと思っていたので、何の準備もしていなかったが、せっかくの機会なので受けることにした。
さっそく久保田先生へ電話すると、
「それでぇ、あぁ悪いんだけど、講演のタイトルは「私の宇宙哲学実践」ということで、やってもらえないだろうか。実はもうプログラムを刷り込んじゃったんで、それでお願いしたいんだが・・・」
と言われたので、了承した。
おそらく、予定していた人が突然キャンセルになったので、その代役だったのだろうと思う。私の講演ビデオは、全編、金属ノイズが入っていて声が聞き取れないので、おそらく頒布されていないと思う。
(限定映像:
https://youtu.be/wq8nhPPJa00 )
この後に急いで作った講演メモが、
こちらの資料(「Mandal-Art for Macintosh」で作成) である。
1996年09月23日
この日の日本GAP総会での、塩谷信男先生の講演は、ものすごく迫力があった。
内容は、書籍「大断言」の時の講演とほぼ同じだと思うが、生で聴くと、すごい。
「大宇宙の無限の力による長寿健康法」
https://www.adamski.jp/philosophy/seishin-chosokuho.html
1997年09月14日
この1年間、日本GAPの月例会には殆ど行っていなかったかもしれない。
東京月例セミナーは毎月第一日曜日に開催されていたが、
1997年当時、私は、
マンダラート(Mandal-Art)・ユーザー大会 の幹事を引き受けていて、そちらに参加していたからである。
でも実のところ、この頃になると日本GAPは、加藤純一(うんこちゃん ではない方の)さん一派が本部役員を占めていて、牛耳っている雰囲気になっていたので、ますますUFO一辺倒になっていき、足が遠のいていったのだった。
1998年07月07日
久々に東京月例セミナーに参加してみると、久保田八郎先生が痩せていたので、とても心配になったのを覚えている。
4月に参加した時は元気だったのに、5月は入院して欠席していたとのこと。
そのせいかどうか、会場の雰囲気はもう完全に、加藤純一(うんこちゃん ではない方の)さん一派が主導権を握っていたような感じだった。
つい最近知ったことだが、実はこの年、久保田八郎先生は、彼を日本GAPの後継者として指名することを内々に伝えていたらしい。
先生の手帳に、そのようなメモが書かれていた。
1999年04月04日
日記を毎日書いていたわけではないので記録には残っていないが、東京月例セミナーにはよほどのことがない限り、毎月参加していた。
以前と雰囲気が変わったとはいえ、久保田八郎先生がご健在のうちは、生でお話を聞くことができるので、その価値が変わることがない。
久保田八郎先生は最後の最後まで、宇宙哲学を最優先に考えることだけは、終始一貫して絶対にブレることがなかったので、変な心配は無用だった。
1999年06月06日
この日の私の行動は、今思い出してみても、不思議だった。
1年以上も夕食会(飲み会)には参加していなかったのに、どういうわけか、今回だけは参加しないと後悔するぞ、という気持ちが働いたのだ。
一回、参加を止めて帰ったのに、再び会場へ向かって、結局参加することになった。
開始時間ギリギリになって会場に着いた時、ちょうど久保田八郎先生が到着して、一緒にエレベーターに乗って挨拶した。
そしてこれが、久保田八郎先生と接した最後の日になったのだ。
この直後に、腎不全で入院し、月例セミナーの出席もこの日が最後になった。
1999年10月10日
久保田八郎先生が不在のままで、日本GAP総会が行われた。
秋山眞人さんのご講演なので、内容は満足だったが、やはり何かもの足りない気分だった。
もはや日本GAPではない!と感じた。
1999年10月29日
久保田八郎先生のご逝去のニュースを非公式で知ることとなった。
この件は絶対に秘密にするようにとのことなので、誰にも言わなかった。
本部事務局から公式に、何かのお知らせがくるのかな?と思ったが、何も来なかった。
1999年11月07日
公式に何の情報も知らされぬまま、東京月例セミナー会場へ足を運ぶと、その会場で久保田八郎先生のご逝去が知らされた。
私も含めて、もうすでに知らされていた人も多かったし、掲示板でも噂になっていたので、会場に来て初めて驚くという人は少なかったと思う。
今後どうするのか?という話は、この日は特に出なかったように記憶している。
15時に閉会してから、喫茶店でいろいろな話を聞いた。
本来ならば、後継者に指名されていた加藤純一(うんこちゃん ではない方の)さんが会を引き継ぐ流れになっていたはずだけど、そうならなかった事情があるらしい。
後継者を自称する人が、彼の他にも数名いたそうなので、お金、名簿、資料等の取扱いについてのトラブル懸念があったのだろうということは容易に想像がつく。
1999年12月05日
結局、久保田八郎先生のご家族の意向により、1999年12月6日に「久保田先生を偲ぶ会」が開催されて、日本GAPは解散し、幕を閉じることとなった。
そもそも日本GAPは団体ではなく、久保田八郎先生の個人活動なのだから、賢明な判断だと思う。
私は団体活動には全く興味がないので、いかなる団体や派閥にも参加しないスタンスだったので、その後は、同じスタンスの人にだけ協力していくことにした。
1997年以降、「日本GAP横浜支部」のホームページ運営に協力してきたが、支部代表の清水さんが同じスタンスでずっと永く続けていきたいとのことだったので、引き続き協力することにした。
とはいえ、
加藤純一(うんこちゃん ではない方の)さんが新たに立ち上げた新団体「日本UFO調査・普及機構」は、最初だけ入会することにした。
久保田八郎先生が7月に発刊するつもりでほぼ完成していた幻のオリジナル「UFO contactee 第146号」の掲載記事が、新団体の機関紙の目玉記事用に転用されたと聞いたからである。
日本GAP本部事務局の名で実際に発刊された第146号は、全くの別物として作られたものだったらしい。
2000年10月20日
新しいUFO団体は、機関紙をパラパラ読んだけれども、会合やイベントには一切参加しなかった。
「生命の科学」の学習は一人で続けていたが、日本GAPの東京月例セミナーの時のように、集まって会話する機会がなくなってしまったのは残念だった。
2000年11月27日
新しいUFO団体の会員は予定どおり1年でキッパリ止めた。
宇宙哲学の要素が皆無で、役立つ情報も特になく、とうとうグレイ宇宙人の話まで出てきた。
UFOの話だけだとネタが尽きるので、この先、長続きはしないだろうと思った。
その後、この団体がどうなったのかは知らないが、どうやら10年持たなかったらしい。
代表の加藤純一(うんこちゃん ではない方の)さんは、2016年くらいに一度活動を再開していたらしいが、
当初いた 取り巻きの人たちはどこへ行っちゃったのだろうか? ケンカ別れしちゃったのでないことを祈りたい。
でも所詮、互いに信頼・尊敬し合うような集まりではなかったのだから、もう「用済み」だったのだろう。
そもそも、その後はすぐにまた活動を停止してしまったようなので、今もご健在なのか?気になるところである。
もしご健在なのだったら、久しぶりにお会いして、お話してみたい。
私が日本GAPの東京月例セミナーに初めて出席した時、初めて声をかけてくれたことはとても感謝している。
久保田八郎先生が入院した後、膨大な資料を持っていかれたと聞いているので、もし活動を停止したのなら返してもらえないのか・・・等、ぜひ交渉してみたいところである。